2024.11.13 12:17藩校鳴鳳館跡 (map記載 誤:藩校鳴凰館跡) 天明5年(1785年)七代藩主就馴が、政務を司る御蔵本に鳴鳳館を建てた。創設に尽力したのは、執政の奈古屋蔵人である。 館の名前は、福岡の亀井南冥に頼んで付けられ、集められた書籍は、三代藩主元次以来、蓄積したもので、当時としては最も完備した内容を誇っていた。八代藩主広鎮の時、桜馬...
2024.11.13 12:13旧藩鐘楼跡 藩政時代に鐘楼があり、毎日鐘をついて時刻を知らせていた。明六ツ(午前6時)・暮六ツ(午後6時)・昼についていたという。 鐘楼があるので、この辺りが鐘楼丁という地名になった。「おやつ」は、ハツの刻(2時ごろ)に食べていた軽食が、そのまま子供のお菓子になった。
2024.09.29 06:03北関門跡 徳山藩祖毛利就隆が慶安3年(1650年)野上を徳山と改称し、武家屋敷(家中と言われていた)周辺に四か所の関門を設け、出入を厳しくした。 そのため生活物資等の供給は多く関門外で行われたので、辻は酒造・呉服・米屋などの店が多くなり栄えた。 明治維新以後は、廃藩となり関門も除かれた。
2024.09.29 06:02六角堂 清水坂に、和田セキ氏(東辻)が建立した六角堂がある。夫が不治の病になったので、その供養のため造ったもので、高さ65cm・六角の一面の幅18cmで、頭の部分の笠は山くずれによって破損し、なくなっている。 それぞれの面に、四国八十八ケ所・子安地蔵三界萬霊・火除大明神・阿彌陀如来・猿...
2024.09.29 06:01五輪塔(九ノ森) この五輪塔は、高さ1.1mで、陶氏か杉氏かの武将九人の墓ともいわれ、また落人の墓ともいわれている。 五輪塔は、宇宙の五元素を形どったもので、下から方形(地輪)、円形(水輪)、三角(火輪)、半月形(風輪)、宝珠形(空輪)の五つの形で現わされ、特に鎌倉時代に多く造られた。 この付近...
2024.09.29 05:59日切の地蔵様 泉原町高橋氏宅内に日切の地蔵様を祭ったお堂がある。これは昭和30年の初め、お年寄りたちがあちこちのお大師様にお参りしていたころ、大事な石が高橋氏の家の下敷になっているといわれたので、御大師様(一ノ井手)におはらいをしてもらい、その石を綺麗に洗って祭られた。 この地蔵様を「日切の...
2024.09.29 05:20飯田先生旌功乃碑(飯田忠彦旌功乃碑) 飯田忠彦は、寛政10年(1798年)徳山藩士生田十蔵の二男として二番丁で生まれた勤王の志士である。江戸藩邸に勤務し、飯田氏の養子となり、大日本史にも比すべき大著「野史」の刊行を30有余年の長い年月を費やして達成した。 しかし、安政年間に尊王攘夷の急先鋒と思われ、拘置されたことに...
2024.09.29 05:17織部とうろう 織部とうろう(キリシタンとうろうともいわれる)は、千利休に茶を学んだ古田織部の考案したものといわれ、隠れキリシタン信仰と関係があるとも考えられている。 このとうろうは、花崗岩製で笠、火袋などは失われて竿(高さ72㎝)のみであるが、正面に人物像が浮彫りにされており、福田寺境内の吉...
2024.09.29 05:13周南市文化会館 徳山藩主毛利氏居館跡に昭和57年に徳山市文化会館が建設された、緑の銅板ぶきの建物で、総事業費約43億円といわれ、文化都市徳山にふさわしい会館である。 1,800人収容の大ホールを中心に、リハーサル室、練習室、展示室、和室、ロビーなどがあり、延べ床面積11,118m²で、特に音響...
2024.09.29 04:57祐綏神社 祐綏神社は、徳山毛利家の祖霊を祭ったもので、文化8年(1811年)に現在の動物園に建立され、初代藩主就隆と9代藩主元蕃が祭ってあった。 戦災で神社は全焼し、そのまま放置していたが、毛利家の御霊社が残っていたので、動物園開園時の昭和33年に神域を拡張して現在地に御神体を遷座した。
2024.09.29 04:53祝徳山開府二百五十年碑 祝改称二百五十年記念碑 徳山初代藩主就隆が、慶安3年(1650年)、下松より野上に館を移し、野上を徳山と改称してからの発展は、めざましいものがある。 これを祝福し、今後の発展を祈念して、改称から250年後の明治34年に東船町中と東浜崎町中の有志が建立したと彫ってある。 この時のお祝いは徳山旧市内は勿論...