御貴庵丘跡(上一の井手)
この付近一帯は昔、野上の庄の穀物園と呼ばれていた。天文時代に悪病が流行して多数の人が亡くなったり、災害がたびたび発生したりして、住民は貧苦のどん底に落ち込んでいた。
当時の領主は陶氏の重臣・野上修理亮義忠氏で城山に城を築き、ふもとの御貴庵に館を構えてこの地を治めていた。
氏は住民の貧苦を救うために、御貴庵丘の高地で身を清め、武運長久と住民の安泰を祈願し、酒酔谷(栄谷)より流れる川に、一の井手及び二の井手を造って農作に力を入れたので、領内は再び繫栄したという。
野上氏の遺臣に野村と称する姓があると言われている。
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