末次海軍大将記念碑

 末次信正(海軍大将)は、明治13年操九郎の二男として西辻に生まれる。幼年時代は徳山で育ち、父の奉職の関係で広島に移住し、広島の中学校に在学、明治32年海軍兵学校を卒業、34年少尉に任官した。

 37年日露戦争に出征、大正10年、全権加藤友三郎に従ってワシントン軍縮会議に参与した。同12年少将、その後潜水隊司令官、海軍教育局長、舞鶴・呉両鎮守府司令官、昭和8年連合艦隊司令長官、9年に大将に進級、勲一等瑞宝章を受ける。

 11年横須賀鎮守府司令長官、ついで軍事参議官に補せられた。12年6月退役してからは、第一次近衛内閣の参議となり、その年内務大臣に就任し、15年7月第二次近衛内閣の成立と同時に太政翼賛会協力会議長となる。

 徳山市須々万にある飛龍八幡宮境内に、武運長久、天壌無窮と彫ってある二つの碑がある。これは内務大臣、末次信正の揮ごうによるもので、書の見事さがうかがえる。昭和19年12月東京において64歳で死去したが、大将の功績をたたえ有志によって昭和32年末、隠居山の興元寺墓地に記念碑が建立された。